ダンサーを思わせるその姿に意表を突かれただけではありません。
安藤選手・その演技・ラヴェルの音楽・宮本氏の振付け・コスチューム、それら全体の、互いに別ちがたい、あまりに完成度の高い「一体感」に心を奪われたのです。
今回ここではその中で、この安藤選手ならではのコスチュームのすばらしさについて、あえてぜひ一度、言葉にしておきたいと思います。
フィギュアスケートのコスチュームは、市販のものも含め 美しいものが多いですし、一流スケーターともなれば個別に特注し 工夫を凝らすのが普通なのだろうとは想像します。
しかし、単に美しいということを超えたものが「ボレロ」の衣装にはある、そう感じられてならないのです。
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「役柄」ないし「人格」の語源に"ペルソナ(persona)"という言葉があります。 その元々の意味が「仮面」であるにしても、演技である以上はフィギュアスケーターも氷上でペルソナをまとう。
であれば コスチュームがそのペルソナの一部になるのは、とても自然なことに思えます。
あるいはさらに、コスチュームには スケーターやコレオグラファーの世界観が込められている場合も あるはずです。
今シーズンの SP、SAYURI の挿入曲をとおして自らの心を氷上に描く安藤選手、その衣装もまた、音楽に託された「宿命の重さ」と、演技の動きを通じた「可憐な儚さ」との対比が精妙に計算された、たいへん秀逸なデザインと思われます。
安藤選手とともに一つの心を描くがごとき姿をそこに感じます。
そしてこのような表情の強い衣装を着こなし、なおかつ美の主役を その衣装に決して奪われることのない安藤選手自身の存在感の強さもまた、彼女の天賦の魅力だと思います。
この「Chairman's Waltz」の衣装、このように 安藤選手のたぐいまれな個性に頼って初めて成功していると同時に、コレオグラファーであるモロゾフ氏の芸術的な積極性、言わば主張するデザイン、に負うていることは、ほぼ間違いないでしょう。
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一方、ボレロのコスチュームは、そうした表だった主張を、一見 あえて抑えてあるかのようにも感じられます。
むしろストイックに、練習着の持つ自制的な美の延長上に、そのデザインの核心を置いているとも思われます。
そしてそのことが、厳格な形式の中に無限の広がりを込めるラヴェルの音楽と共鳴し、結果、動きの中での表情という、コスチュームの持つ本来的可能性をかえって鮮明に現わしている、そう直感されるのです。
それにしても、エキシビションの暗いリンクの中で、宮本氏の独創的な振付けにそって鮮烈な残像を我々の眼の奥に残す あの赤い裾の絶妙な意匠的処理。 ・・この造形に見て取れる、無駄を切り捨てる潔さは並大抵のものではない、素人ながらにそう感じました。
ここには引き算の美意識と、必要な足し算の大胆さとが両方あって、それが演技空間の中に「生/エロス」の世界観をとても象徴的に表現しているのだと思います。
そしてそれ以上に、演技者である安藤選手の個性と魅力を引き立て、いや、安藤選手自身と別ち難い一つの persona を構成することで、この衣装でないとプログラムのアイデンティティが成立しにくい地点にまで達していると言ったら、言い過ぎでしょうか。
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およそ優れたデザインは それを身に着ける者の個性と一体になる、と聞いたことがあります。
それでもなおかつ、そのデザインを自ら消し去ることは無いとも。
恐れずにその先を詠めば、優れたデザインは身に着ける者のさらなる可能性を引き出し、そしてデザイン自らもその輝きを増す。
つまりそこには創造性どうしの化学反応があるとも、個を超えた神話の世界があるとも、言えるのかもしれません。
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それゆえ筆者は あの衣装デザインがだれの手になるものか、とても知りたくはあるけれど、いずれ知る日を、神話のなぞ解きのように そっと待つことにしたいと思います。
そして願わくば、あのコスチュームで安藤選手が踊るボレロを、まだずっと、ずっと見ていたい。
あの衣装に氷上で「生」のエロスを吹き込めるのは安藤美姫、彼女以外に無いのですから。