2009年08月12日

Miki Amadeus 〜レクイエムに寄せて〜

Requiem aeternam dona eis, Domine,
et lux perpetua luceat eis.
主よ、彼らに永遠の安息を与え、
そして 尽きせぬ光で彼らを照らし賜え。

・・・
「レクイエム」は鎮魂歌とも訳され、またそのように広義にも使われますが、ラテン語そのものの意味は「安息」、そして本来は、死者の安息を神に祈る カトリック系のミサ、あるいはそこで用いられるミサ曲群を意味します。

モーツァルトのレクイエムも、このミサの祭儀上の形式にのっとった、死者を弔う楽曲です。
幾多の謎に包まれた彼の遺作で、匿名の依頼に応じたものでありながら、モーツァルトが自身の死を予感しつつ自らのために書いたとも言われ、未完のまま彼は没しています。
弟子によってかなりの部分を補筆されながらも、モーツァルトの魂が全編に宿った傑作として、コンサートだけでなく実際に死者を弔う礼拝においても演奏されますが、フィギュアスケートのプログラムとして原曲そのままに演じられることは、知る限りこれまで無かったと思います。



安藤選手による、その「モーツァルトのレクイエム」の演技が私たちの間で深い感動の波となって広がりつつあります。

安藤選手はこのプログラムで自ら大きな「祈り」の化身となって、音楽と舞と魂の烈しい融合を私たちに見せます。
音楽に滑りを合わせるという次元を遥かに超えていて、演技に立ち会う者に、それがフィギュアスケートという形式を採っていることをさえ忘れさせるものがあります。

このプログラムの舞のすべての瞬間に彼女が込める想いの深さ、それは彼女のファンであれば否応なく我がごとのように胸に迫ります。
しかし、そこには個人史の投影にとどまらず、人間という存在の普遍的な苦悩が大きな主題として現れているようにも感じられてなりません。

・・・
安息を祈るレクイエムですが、安藤選手の演技も、そしてそもそもモーツァルトの音楽自体も、静かに祈る部分だけでなく、およそ安息とは逆の、苦悩の激しさに彩られた部分が印象に残ります。



Dies irae (怒りの日)

Dies irae, dies illa
solvet saclum in favilla:
teste David cum Sibylla.
Quantus tremor est futurus,
quando judex est venturus,
cuncta stricte discussurus !

怒りの日、その日は
ダビデとシビラの預言どおり
世界が灰塵になる日。
審判者が現われて
全てが厳しく裁かれる、
それはどんなに恐ろしいことか!


怒りの日から始まり 涙の日(ラクリモサ)で終わる、典礼の中間に組まれた連詩「Sequentia(組曲)」の部分は、このように、神の裁きを受ける「最後の審判」をテーマにしています。
キリスト教は「神との契約」という形を取りますから、天国での永遠の安息を授かるためには、契約が守られているかを神の判断に委ねなければならない。
その審判は死そのもの以上に恐怖とおののきをもって捉えられます。

その苦悩は組曲を支配し、怖れのはるか先に安息への希望が託される。
ラクリモサ(涙の日)の末尾にようやく requiem の語が置かれます。

Lacrimosa dies illa,
qua resurget ex favilla
judicandus homo reus.
Huic ergo parce Deus,
pie Jesu Domine,
dona eis requiem.

涙の日、その日は
死者が己の罪を抱えつつ、裁きを受けるために
灰の中からよみがえる日です。
神よ、この者をどうかお許しください。
慈悲深き 主イエスよ、
彼らに安息を与え賜え。



・・・
宗教に帰依しなければ こうした畏怖や祈りの深さは理解できないでしょうか。
いや、神を持たない民にとっても 普遍的な想いとして、大切な人への、そして同じ宿命を持つ全ての人々への、真摯な祈りはあるはずです。

それは意識の底から出でて、また、恐らくは体全体で感じるものなのかもしれません。

であればこそ、安藤選手の氷上のレクイエムが、音楽に込められた苦悩と救いという根源的な主題を、キリスト教の思考の枠から解き放ち、かくも私たちの本能に直接届け得るのだと思います。

燃えるような舞を通じて、信教の有無や宗派の違いを超えた 普遍の願いと根源的な感動へと導かれる、魔法のようなひととき。

安藤選手が滑りの中に昇華する祈り、
その4分を超える凝縮された時間の中で、モーツァルトと同じく、彼女も一人の稀有な、神の愛でたもう Amadeus であることは間違いありません。



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